Weblio によると「心が洗われる」というのは、「心の汚れが取れて清々しい気分になること」となっているけど、なぜ洗う人は自分じゃない誰かになっているんだろう。
心は洗うものであっても、洗われるものではないはず。「悔い改める」であって「悔い改めさせられる」ではないように。似たような言葉に「命の洗濯」ってのがあるけど、こちらは現代的に言えば「リフレッシュする」ってことだよね。でも、「心を洗う」とは言わないんだよなぁ。仏教の言葉に「洗心」というものがあるが、これも自発のものであって誰かや何かに感化されて「心が洗われる」ものではないはず。
Googleで検索してみると…
心を洗う 317,000 件
心が洗われる 438,000 件
洗われるもののようだ、心は。
一方で「現れる/表れる」というのは、隠れていたものが表面に出てくる、感情・思想などが表面から知られる状態になる、ということ。頭で考えて「良い」と思うのではなくて、心から感動するような状態、心が前に出てくるような「圧倒された時」に使うのではないだろうか。「言葉」でなく「心」で理解できた! ってことに近いんじゃないだろうか。
たとえば…
雄大な山の出で立ちを見て心があらわれるようだ。
アリが健気に働く様を見て心があらわれた。
洗われるのであれば、アリの例でもしっくり来そうだが、心で感じるものだとしたら、アリの例はしっくり来ないはず。
言葉は時代と共に変わるものだと思うけど、漢字の間違いから意味自体が変わっちゃうのって不安な世の中だよ。なんとなく段階を考えてみると、こんな流れじゃないかと。
活版時代:心が現れる
↓
テレビ時代:心があらわれる(口語としてテレビで使われる)
↓
ネット時代:心が洗われる(ネットで間違い続出)
↓
そして今:Google にインデックスされまくる「洗われる」
↓
洗われるが正しい言葉に…
いや、実際には僕の勘違いかもしれないし、今までの間違っていた情報を覚えているだけかもしれないんですけども。
おじさんの目線
昔、たしかに習った気がするんだけどなぁ。